このところずっと、穏やかな仮面の下で裕司が悩んでいたことは知っている。
表面上は変わりないので他人は気づけないだろうが、パートナー関係にある澄生は彼が発する波動で受容体が刺激され少なからず気持ちに影響を受けるからだ。
裕司が何に悩んでいたのかもおおよそ見当がついていた。
彼は研修医だ。いずれ別の病院へと移る。澄生を連れていくかを悩んでいるのだろう。
幸いにして部活顧問は年度ごとに更新される契約だ。だからもし問われたら「来年の春まで勤めてから追いかける」と答えるつもりだった。それなのに。
(どうしよ。こんなこと相談されても、困るだけだよなぁ)
溜息をつきながらスリッパを靴に履き替え、玄関を出たところで内ポケットが振動した。チラと覗いた着信通知には『話したいことが』の文字。
「すっごいタイミングで連絡くれるな、裕司さん」
アプリ画面を開いてメッセージを確認すると、話があるから今夜マンションに来てくれないかという内容だった。裕司の話はきっと澄生の想像どおりだろう。ちょうどいい機会だから、きちんと彼のつもりを確認しておきたい。
一旦帰宅して泊まれる用意をしてから向かうという旨の返信をし、ひとまず部活動が始まる時間まで暇を潰すつもりで部活棟のほうへと足を向けた。
県道を挟んで向かい合う敷地に中高それぞれの校舎が建つこの学校では、部活棟は両者の生徒たちが利用しやすいよう、道に面した敷地の端に造られている。
高等部の校舎から正門前の庭を抜け、部活棟の建つエリアへ進もうとした時だった。
(ん? なんだ、あの男)
正門の向こう側にある沿道に、薄汚れたパーカーをまとった人物が立っている。
ボサボサの黒髪と凹凸の少ないのっそりとした立ち姿が印象的な、20代半ばほどに見える男だ。鞄も何も持たず、両手をジーンズに突っ込んだ姿のまま、高等部の敷地内に入るかを迷うような素振りで校舎を見あげている。
まさか女子生徒を狙う不審者かなにかだろうかと警戒しつつ、男に声を掛けようとした時、その男のほうが先に澄生の存在に気づいて顔を向けた。
「あ? ……お前、武田?」
「は?」
こんな野暮ったい知り合いいたっけ? と思いつつ顔を見つめる。
目の縁が浅黒く淀んだ顔付きをしていて、いかにもその日暮らしの日陰者といった印象だ。少なくとも身近な知人にこんな影をまとった人物はいない。
しかし分厚い下唇の右横にあるほくろが目に留まったところで、遠い記憶が蘇った。
「―――え、まさか、小林……先輩?」
「おいおい。いまごろお前が、おれの前に現れんのかよ」
その男の名は小林悟志。
当時は中学三年で、澄生が片思いしていたとある先輩と同じクラスだった。
同級生からその先輩がDomらしいときき、もしやの期待を込めて自分がSubであることを打ち明けた。彼の側も体調不良に悩んでいたらしく、お試しでパートナーになることを承諾。だがその翌日に、話を盗み聞きをしていた小林たちに呼び出されたのだ。
学校側の調査でイジメが発覚した後、小林は両親と揉めて不登校になり、結局どちらとも疎遠になったまま彼らは中学を卒業してしまった。だから会うのは8年ぶりになる。
「なんで…………あんたが、ここに」
「お前こそなんで居やがんだよ。まさかここの教師だったのか?」
「お、オレは部活顧問だけど」
「へぇ~~~~~」
状況が飲み込めたところでニヤリとした小林は、両手をポケットに突っ込んだ猫背のまま、ぶらぶらと澄生のそばまで歩み寄ってくる。
傍らで首を突き出すようにして見返した目は、まるで小動物を弄ぶ捕食者だ。
「あの雌犬が出てくるのを待ってたんだが、まさかお前と鉢合わせるとはなぁ」
「雌犬?」
「ここの教師に居やがんだろうがよ。田中未希って女が」
「―――……は? もしかして、田中先生が一方的に切られたっていうDom男性って、あんたのことだったのか!?」
「切ったわけじゃねぇ。這いつくばって股開くことしかできねぇSub奴隷の分際で、裏切りだなんだとふざけたことぬかしやがったから、面倒でしばらく放置しただけだ。せっかくまた使ってやろうってのに、飼い主の呼び出しを無視しやがって……」
「バカかあんたっ!」
澄生を犬だ奴隷だと嘲笑ったあの当時と同じ。
人を人とも思わず、Subすべてを見下したような口ぶりをきいて、当時の憤りを思い出した澄生は思わずカッとなって叫んでいた。
「連絡なんかつくわけないだろうが! 田中先生は勤務中にBad tripを起こして病院に運ばれたんだぞっ!?」
「はぁ? 病院?」
「不安定な精神状態のSubを長期間放置すればSub dropになる。重篤化すれば心不全や呼吸困難を起こして死ぬことだってあるんだ! そんなのはダイナミクスを学びたての中坊だって知ってることだろうが!」
「…………っ」
「オレんときに周りからさんざん説教されたはずだろう!? あんた今まで、いったいなにを学んできたんだよっ?」
「うるせえんだよ、この糞Subがっ!」
怒鳴り返した小林の体からビリッ!と電流のように感じるGlareが広がった。
至近距離から放たれた威圧にたちまち鼓動は跳ね上がり、言いようのない不快感と恐怖で体の力が抜けそうになる。
辛うじて飲まれはしなかったものの、意志の力ではどうにもならない衝撃に息を詰めた澄生をみて、気勢を取り戻した小林がニタリと嗤った。
「ははっ。そ~だよなぁ~。お前もSubだもんなぁ」
唇を噛んで睨み返す澄生の顎を、ヤニ臭いガサガサとした手が掴み上げた。
振り払いたいが、痺れたような手足は思うように動かない。
「威勢のいいことを言ってても本能には逆らえねぇってか? へっ。あの雌犬が使えねぇってんならしょうがねぇ。お前をおれの奴隷にすっか」
「なっ……」
「安心しろ。男のケツになんぞ興味はねぇからよ。けどまぁ……そこそこ見られるツラはしてやがるしな。泣かせて憂さ晴らしするにはちょうどいい」
「ざ……っけんな! 誰が……あんたなんかのっ!」
「てめぇに拒否権はねぇ」
小林は澄生の顎を掴んでいた手で乱暴に突き放したかと思うと、勝ち誇ったような顔つきのまま早口にコマンドを発した。
「おら《這え》! 犬みてぇにそこに這いつくばれよ!」
「……うっ」
命令が耳に届いた直後、脳内に服従を強要する圧が襲った。
過去の記憶がフラッシュバックし、搔き乱された意識が引きずられそうになる。
……が。
澄生の体は中腰の姿勢のまま動かなかった。
突き飛ばされたことで逆に精神的な呪縛を解かれた澄生は首元を抑えながら息をつく。そのまま驚き顔で見返す小林にニッと笑ってみせた。
「残念だけど、そんなへなちょこコマンドじゃ、オレは従えらんねぇよ?」
「はぁ?? Subの分際でなにDom様に逆らってやがる。這いつくばれっつってんだろうがっ」
「やだね。オレの飼い主はあんたじゃねぇし」
思い浮かべたのは、猛々しい雄の顔だった。
いつもは穏やかで優しい裕司が2人きりの時にだけ見せるもうひとつの顔。
頭の芯が溶け崩れるのではないかと思うほど強く、深く。
心も体もズブズブにGlareで満たして縛り上げてくれる。
あの蜜のように甘く強烈な支配に比べたら、この程度の威圧など、全くもって子供の遊びだ。
そう自分に言い聞かせながら、両手を脇にかかげて肩をすくめた。
「オレはもう中坊のガキじゃねぇよ。いつまでもそんな薄っぺらな威圧が通用すると思ったら大間違いだ」
「んだと、コラ? ふざけやがって!」
「ふざけてんのはあんただろう。こんな校舎のド真ん前でコマンドを使いやがって。生徒たちに目撃されでもしたらどうするつもりだ!」
「うるせぇっ! 黙れ、この糞がっ!」
コマンドが通じないと分かったとたん憤怒の形相で殴り掛かってくる。
今度は澄生もじっとしてはいなかった。
即座に前へと踏み込んで片手で顎を押し上げ、同時にもう片手で袖を掴んで引き倒す。そのまま腕を背中へと捻り上げて地面に転がし、体重を乗せて抑え込んだ。
「ったく。気に入らなきゃ暴力かよ。ほんっとろくでもねぇな、あんた」
「イ……イテテッ。は、離せっ! ちくしょうっ!」
その頃になって、ようやく事態に気付いた教師たちが校舎内から走り出してきた。
駆け付けたのはさっき職員室に居残っていた教師たちだ。
その中で英語教師として勤めているDomの男性が、小林を抑え込んだまま顔をあげた澄生の肩を掴む。
「武田くん! だ、大丈夫なのか。いまGlareが……っ」
「大丈夫っす。オレはSubランクが高いんでこの程度じゃ負けません。それより、どうやらこいつっすよ、田中先生を一方的に切ったって言われてたDomって」
「なんだって!?」
そこからはもう、警察までが駆け付ける騒ぎとなった。
澄生に対する暴行は未遂に終わったため、小林の処分は厳重注意に留まったものの。事情聴取等に呼ばれた澄生が解放されたのは結局、夏の夕日が沈む時間帯だった。

