大陸歴765年、弓季8月3日。
赤いスピの実を詰む手をとめ、谷を吹きすぎる緩やかな風を感じながら俺は、頭上はるかにある青い帯を見ていた。
「あ~~~~~~~~~ひっまだなぁ……」
無意識に口を突いて出た言葉に、うぷっと自分で笑ってしまった。
俺が居たのは谷の民が東の村と呼ぶ集落の東側にある果樹園で、背丈の倍くらいの高さの木になったスピの実をいままさに収穫している真っ最中だったからだ。
首をすくめてこっそり周囲を見わたすと、俺と同じように籠を背負った大人たちが、右に左にと宙を飛び交いながらせっせと収穫作業を続けている。こんな時に「暇だ」なんて口走ってるのを聞かれたら「真面目にやれ」とどやされるに決まってる。
ギシリと両肩に食い込む籠を背負いなおし、熟れた甘い香りの立つ実を両手でもぎ取ってぽいぽい放り込む作業を再開しながら、再び上を見あげた。
俺たちが住むこの村は、西の大陸中央にまたがる全長2000キルメ(※1キルメ=約1.2キロ)以上にもなるというリンドラ山脈の北側を、真っ二つに分断する谷の底にある。
まぁ谷底とはいっても、蛇行する大河の左右には平らな土地が広がっていて、点々と家が建ち、木々や草花もそれなりに生い茂っている。子供のころに聞かされた冒険譚に登場するような、地面と岩しかない真っ暗な地の底を想像すると肩透かしを食うだろう。けれど、下から見あげた崖は、巨人がでっかい斧で叩き割ったんじゃないかと思うような断崖絶壁だ。
足がかりになりそうな段差もほとんどなく、山脈を囲む大森林にも谷へ至る道は存在しない。それこそ鳥でもなければ生きて辿りつけるような場所じゃないという皮肉から、周辺の国に住む人々からは《桃源郷の谷》という名称で呼ばれているらしい。
そして俺がいた果樹園は、谷底を流れる河が東寄りに大きく蛇行した一帯の、見た目がまるで薄い生地を重ねて作る菓子の断面のように5層重ねた岩棚になっていることから《五段棚》と呼ばれている場所だった。
そこから見わたすと、両側から迫ってくるようにも見える白い岩壁がある。
北を見ても、南を見ても、ず~~~~っと先まで延々と同じ壁が続いている。
そして上に見えるのは、崖とおんなじ幅をした青い帯。
これが、谷の民にとっての空だ。
もちろん夜になれば星が瞬くし、曇り空は灰色で、雨や雪が降れば黒々とした雲が一面を覆う。そうした変化はあるけど、決まった幅で起きている現象であることに変わりはない。
谷で一番の物知りである南の婆の話では、谷の外には広大な田畑や、賑やかな街や、地平の果てに広がる海があるというのだけど、俺は見たことがないし、谷の民の半数くらいは一生目にすることがない世界だ。
なぜなら谷の底には、一族が500年以上もかけて積み上げてきた満ち足りた暮らしがあって、わざわざ外界へ行く必要などはない。少なくとも大人たちはそう考えている。
だけど…………いつか外の世界を見てみたい。
それが俺の本音だった。
「いつか、そんな日がくるんかな」
そんなあまりにも青く、平穏で、変わり映えのしない空を見あげながら呟いたとき、右手側にある木の向こうから幼馴染みのウィリオがひょいっと顔をだした。
「なんの日だって、カイエ?」
「いいや。なんでも」
俺よりも頭半分くらい背が高いウィリオは、きっと俺と同じく収穫作業に飽きてたんだろう。
首の後ろで束ねた薄茶の髪を風に靡かせながらヒラリと舞って隣に立つと、片腕を俺の首に回して、やんわりと抱え込むようにしながらいう。
「さっきからずっと空を見上げてたじゃないか。いったい何を考えてたんだい?」
どこか揶揄うような笑いをふくんだ、穏やかな声だ。
するとそこに、ウィリオが出てきたさらに奥の木の陰からも、左肩で編んだ巻き髪を宙に浮かせたモニカが興味津々といった顔で近づいてきた。
「え~~~なになに、なんの話~? わたしも混ぜてぇ~」
「だから、なんでもねぇって」
モニカは身軽にひょいと俺たちの上を飛び越えると、ウィリオとは反対側から俺の腕に両手を絡める。そして肩に頬をすり寄せ、花がほころぶように「うふふ」と笑った。
俺よりも少し色味の濃い黄緑色のタレ目で、愛嬌のある表情をしたウィリオ。
蜂蜜色の髪とオレンジ色の瞳の組みあわせがまるで太陽の花のような、ふわふわと明るい笑顔のモニカ。
どちらも、覆衣の儀の夜にともに儀式を受けていた幼馴染み。
物心つく前から子犬のようにじゃれあい、笑いあって育ってきた、兄妹のようにも思える大切な友だちだ。
首に回されたウィリオの腕をくすぐったく思いながら、俺はそんな幸福に笑う。
「ほら、こないだ婆に、冒険者の話をきいただろ?」
「え~~っと、火の島? に渡ったウォーロップ族の男っていう、あれかい?」
「そそ。あの物語に出てくる冒険者みたいにさ、いつかこの谷を出て、世界を見に行くような日が来るんかなぁと思って」
ああと、合点がいった顔をしたウィリオは、人差し指で上の棚を指さした。
「カイエの親父さんは、若い頃はあちこち旅してたんだろう? だったらカイエだって、いつかはそんな機会も巡ってくるんじゃないかな?」
「だといいんだけどなぁ。兄貴たちも結局、外に行く機会はないまま普通に結婚して谷に居続けちまってるし」
「だけど兄弟の中ではカイエだけ年が離れてるから、親父さんもけっこう別格に扱ってるじゃないか。お前さえその気なら、すんなり許してくれそうな気もするけどね」
「え~~~でもぉ。山脈の周りの国ってぇ、決闘とかぁ、戦争とかぁ、侵攻とかぁ、な~んか怖い話ばっかりきくじゃない? 谷の外へいって、何するのぉ?」
「何って……」
思わず、う~~んと考え込んでしまった。
そもそも谷の民が、なぜこんな谷底に住み着いたのかといえば、話は500年前にさかのぼる。
その昔、中央大陸から西の大陸に掛けて勢力を広げていた《帝国》と呼ばれた国があった。その帝国に弾圧され、命からがら逃げだした俺たちの祖先が、長い放浪生活のすえに辿り着いたのがこの桃源郷の谷。
住み始めた当時、谷底には魔物がうじゃうじゃと巣くっていたらしい。
だがアエローフ族にはもともと風に対する高い適性があった。生き延びるために風を操る技術をみがき、その力を子へ、孫へと受け継いでいくうちに、やがて生まれてくる子供たちの誰もが空を飛ぶ力を宿すようになった――と、そう伝えられている。
それで先祖たちは、この谷こそが自分たちに与えられた隠れ里だ……と思い決めたわけだ。
弾圧によって辛酸をなめた初期の翁老たちの『無知は無力なり』という教訓で、谷で生まれ育つ子供はみな幼い頃から戦う術を身につけ、さまざまな知識を学ばされている。
だから世界の成り立ちや、周辺の国々の世俗や情勢といった基礎的な知識は持っているけれど、しょせんは聞いて知っているだけの情報だ。実際の外の世界を見たことのない俺たちには何をすればこの知識を役立てられるのかすら、皆目見当がつかない。
それはウィリオやモニカにとっても同じだったらしく、ともに首をかしげている。
「……な~んにも、思いつかねぇなぁ」
途方に暮れて、再び空を仰いだ俺につられるように、2人も上を見あげた。
遠い、遠い空。
物理的にも、気持ち的にも、いまの俺たちには遠い世界だ。
大人になれば、あの空の向こう側へ……近づける日がくるんだろうか?
「あれ?」
その時ふいに、視線を斜め後ろに向けたウィリオがつぶやいた。
「なぁカイエ、あそこ、誰か立ってないか?」
「え?」
ウィリオが指さす先をみると、五段棚より斜め右上、300アルムほど上方の崖のくぼみに、黒い人影が立っているのが見えた。
「え~~? あれってぇ、隠れ道の出口のとこよねぇ?」
「谷の外から、誰か入ってきたのかな」
2人が訝しげにつぶやくのを聞きながら、俺は目を凝らして人影を見つめた。
遠目にもわかる褐色の肌と漆黒の髪をもつ男だった。
細いが均等のとれた長身に黒い鎧とズボンをまとい、ブーツや腰にさげた剣鞘も黒という全身黒づくめの恰好が、白っぽい谷の風景の中で妙に浮き立って見える。
西日を肩に受けながら、ふらふらと揺れていた男の体がグラリと前へ傾いた。
「きゃ、きゃあああぁ!」
「…………っ……危ないっ!」
とっさに背負ってた籠を放り出し五段棚から飛びあがった。
「あ、おい、カイエ!!」
慌てたウィリオの声を置きざりに、落ちてくる男の体を追って飛翔する。
ビュオッと両のこめかみを抜ける風。その勢いで草紐がほどけて、首の後ろで編んでいた砂色の長い髪が、羽のようにぶわっと広がった。風に引っ張られて痛かったけど、今はムシ!
崖の半分くらい落ちてきた辺りで追いつき、両手と風の魔法も使って受けとめる。
落下の勢いを殺しきれず一瞬ぐらっと傾きかけたけど、追いかけてきてたウィリオがちょうどいいタイミングで向かい側から支えてくれた。
俺が上半身を、ウィリオが足を支える形で抱えなおし、元いた五段棚へと降り立った。
「モニカちょっと、そこ、あけてくれ」
「よ、良かったぁ。びっくりしたよぉ~」
両手で口を覆ったまま固まっていたモニカは、戻ってきた俺たちに気づいて、わたわたと足元の籠を抱えあげた。その開いた場所に男を横たえる。すると男の顔を覗き込んだモニカが、さっきとは違う驚きの声で「うわぁ、きれ~~な人ぉ」と、つぶやいた。
言われてみれば確かに、驚くほどに整った顔立ちの男だった。
巻いた黒髪が影を落とす広い額に、切れ上がった目もと、細い鼻すじ、薄く形が整った唇。それらが褐色の肌に不思議なほど調和し、どこか近寄りがたいような雰囲気を作っている。
どうみても、そこらの平民とは違う。どこぞの貴族か富豪の御曹司といった風情だ。
しばらくして男が、低くうめいて薄目をあけた。
「……こ、こは……」
弦楽器のような深い響きをもった、低い声だった。
「桃源郷の谷だよ。あんた隠れ道の出口の端から落っこちたんだ。俺らが気づいて受け止めなきゃ、谷底に叩きつけられて、爆ぜたウリみたいになってたとこだぜ?」
ぼんやりと宙を見ていた男が谷の名をきいてハッと目を見開く。
黒髪との組み合わせとしてはちょっと珍しい、晴天の空のような青い瞳だった。
そばにいた俺と視線を合わせた男は、慌てた様子で起きあがり……すぐに「ぐっ」とうめいて、体を丸めた。
「あぁ~~まだ起きないほうがぁ」
「そうだな。打ち身になってるみたいだし、ムリしないほうがいい」
必死で痛みをやり過ごそうとしているらしい男を、元のように横たわらせて、改めて怪我の具合を確認してみた。
黒い装備で覆っているのでわかりにくいが、見えている部分に大きな傷はない。せいぜい頬や手足にスリ傷を作ってる程度だけど、めくってみたわき腹や太ももなど、不自然に熱を帯びて腫れているように見える部分がある。骨を傷めてでもいるんだろうか?
「え~~~~~っと……で、どうするんだいカイエ?」
ひょいと左眉だけあげた困惑顔でウィリオがたずねた。
「どうするってきかれてもなぁ」
「でも、でもぉ、怪我してるなら手当しなきゃでしょぉ?」
胸の前で両手を握るモニカも戸惑い顔のまま慌てたように言う。
俺たちが困惑するのにはわけがあった。谷を存続させるための不文律として、外界の者を谷に入れてはいけないという掟があるからだ。だけどあの場合、助けないわけにはいかないだろうし、飛ぶ手段を持たない怪我人をこのまま放置しておくわけにもいかないだろう。
さて、どうしたものか……。
男を取り囲んだまま、そうして俺たちが困っていると、棚の上のほうから聞きなれた怒鳴り声が降り注いできた。
「こらお前たち!なにをさぼってる!」
「げ、親父」
周囲に集いつつあった村民たちを掻き分けてやってきたのは、東の村長である父のゲイルだった。短く整えられた栗色の顎鬚に囲まれた口を引き結び、ヒラッと舞い降りた親父は、スピの実で溢れそうになった籠を足元におろしてから俺の頭をぽかりと殴りつける。
思わず「痛って!」と頭を抱えた俺を無視して、親父は男の傍らに膝をつき、先ほど俺がしていたように男の体を調べはじめた。
「……ふむ。2~3本は折れておるようだな」
「あ、やっぱり?」
「だがこのわき腹と太ももの傷は、今さっき出来たものではなかろう。もともと傷めていたところを、崖から落ちたはずみで悪化させたのだろうな。かなり熱もあるようだ」
親父はそう言いつつ、汗が浮かんだ男の額に手をあてる。
それに反応して男がふたたび目を開け、途切れ途切れの声で呟いた。
「…………ま、ものに……追われ…………岩から……」
「なるほど。だがあの岩棚から谷まではかなり距離がある。途中で力尽きず、よくここまで辿りつけたものだ」
「ん? どういうことだよ、親父」
「入り口は魔法で偽装してあるのだよ。おそらく森林の魔物から逃げているうちに偶然上を覆っていた岩棚を上り、隠れ道がある側へと転がり落ちたのだろう。しかし隠れ道は、健常な足で歩いても半日はかかる距離だ。よく体力がもったものだよ」
「へぇ……。だから、ふらふらしてたのか」
さっきの五段棚から見上げた様子を思い浮かべながら男に視線を戻すと、なぜか俺の顔をじっと見つめている青い瞳と目が合った。
「? なんだ?」
それは不思議な視線だった。
俺の顔、というより、俺を通して別の何かを見ているような……。
「ともかく」
顎鬚に手をやって考え込んでいた親父が、周囲に集まっていた一族に向けて言った。
「この男を村役場まで運ぼう。あそこなら、寝台代わりになりそうな物があったろう」
「し、しかし、村長!」
「分かっている。だが、この子らがせっかく助けた命を、みすみす失わせるわけにもいかんだろう? カイエ、ウィリオ、お前たちは北と西の村長に、東の村役場まで来るように言づてをしてきてくれ。モニカは南の婆のところだ」
「あ、うん」
「分っかりましたぁ!」
俺たちは指示にうなずき、それぞれの方角に向かって飛びあがる。
飛び去る寸前、親父が噛みしめるようなくぐもった声で呟くのがきこえた。
「……どうやら、よからぬ事が、起こり始めているようだ」

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