本当にこんなことが起きるのか。
タクシーから降り立ちながら澄生が抱いていたのはそんな驚きだった。
自分自身もダイナミクスに関係した事件の被害者ではあるが、澄生にとってはあくまでも「学生同士のイジメ」で、ニュースを沸かせるような誘拐だの恐喝だのといった犯罪とは無縁の日常だと思っていた。
だが実際に起きてみると、いかに自分が平和ボケしていたのかが分かる。
先日の状況であれば小林の恨みを買うだろうことは予想できた。その時点で警戒し、身近な人々に注意を促すことはできたのに。
しかしまさか自分ではなく、自分が大切にする別の誰かがターゲットとなることなど思いも寄らなかったのだ。
あの性悪な男のことだ。今ごろすでに門田に乱暴を働いている可能性もある。
仮に大事には至らなかったとしても、見知らぬ男に連れ攫われたこの出来事が少女の心に傷を負わせてしまうのは間違いない。
こうなってしまったのは明らかに、無頓着すぎた自分の責任だ。
(くっそ……オレがもっと、しっかりしていればっ……!)
焦るあまり幾度もポケット端に引っ掛けながらスマートフォンを引っ張りだした。
アプリ画面を開き、門田の端末から送られてきたメッセージを再確認する。
タクシーで移動する間に小林が伝えてきたホテルの名は『Villains』。悪役とはまた皮肉な名前だった。あの男が情緒的な意図を持って選んだとも思えないが。
そのホテルの名と、いまから突入するとのメッセージを裕司に送り、無人のフロントを通って指定された番号の部屋へと向かう。
部屋のチャイムを押そうとして一瞬ためらった。
まさか本当にこんなことが。その戸惑いがいまだに現実味を無くしている。
そしてもうひとつ、じつは教えられたホテルや部屋はデタラメで、小林たちがいるのはまったく別の場所ではないのかという疑いも頭の片隅にあった。
だが、ボタンに添えた指に力を込めようとしたまさにそのタイミングで、ドアの向こうから「キャア」という微かな声がして、一気に頭に血が上った。
ダダ!と叩き壊す勢いでチャイムを鳴らし、ドアを打ち鳴らす。
「おい! 小林、いるんだろっ!? 開けろ! 言われた通り来てやったぞ!」
するとものの数十秒ほどでドアが開く。
ドアの向こう側に立っていた小林は見覚えのあるパーカー姿。無精ひげの生えた頬を皮肉気に歪めて「遅かったじゃねぇか」と呟いた。
「てめぇが遅ぇから、待ちきれずに雌ガキを犯っちまうトコだったぜ」
「……あんた……っ」
「おっと! 近づくんじゃねぇぞ? こいつがどうなっても知らねぇぞ」
小林の腕は少女の首に巻き付けられていた。もう片手にはサバイバルナイフ。
私服のシャツのボタンは弾け飛び、水色の花柄の下着も露わになっている。
衣服を乱されただけで今のところ乱暴はされていないようだが、泣き腫らした顔で澄生を見あげる門田は、真っ青のままカタカタと震えていた。
「……んせぃ……」
「ごめんな、門田さん。オレの事情に巻き込んじまって」
開いたドアの端を片手で握りしめながら、澄生は目元を歪めた。
どれほど怖かっただろう。
男の自分ですら8年前の出来事はトラウマになるほどの恐怖だったのだ。まして彼女は年頃の女の子。犯されかけたという本能的な怯えもある。
これ以上の負担をかけるわけにはいかない。暴力が振るわれる前に何としても逃がさなければ。
「おい。さっさと入れよ」
門田を抱えたまま数歩後ずさった小林は、顎をしゃくって澄生を促した。
ドアが閉まるまでに隙が無いかと伺ったが、さすがに刃物を当てられていては下手な賭けができない。やむなく促されるまま踏み込み部屋の奥へと移動する。
ぐるりと見渡した部屋はシックで広々とした空間だった。
黒を基調とした壁紙と調度品が並び、壁の一部には童話に登場する悪役たちを模したような絵柄が描かれている。部屋の1/3ほどを隔てた壁の向こう側に洗面台や風呂といった水回り。
部屋の中央にデンと置かれた巨大なベッド。その横のテーブルにはサービスドリンクや菓子などが並べられ、奥の壁際にも黒っぽいソファが据えられていた。
特徴的だったのは、ソファがあるのとは反対側の壁に「✕」の型をした磔刑台や、枷や鞭などの小道具が用意されていること。最近の流行りらしいプレイ用として設計された部屋だ。
小林は明らかに澄生を、あるいは両方を弄ぶ目的でここへ呼びつけたのだと分かる。コマンドや拘束で動けなくされてしまう前に行動を起こさねば。
(どうする……どう動けばいい?)
さり気なく室内の距離感を図りながら頭をフル回転させた。
澄生は小道具がある壁側に立ち、2人はベッド手前。入口までは15歩ほどの距離。
腕の内から引き離すことさえできれば逃がすことは難しくない。
小林は門田がただのか弱い少女だと思って油断しているだろう。そこに勝機があるかもしれない。
(門田さんが、うまく……オレの指示に従ってくれれば……)
脳内でシュミレーションしながら小林を振り返ると、奇妙な顰め顔をした男がじっと澄生の首元を見つめているのに気付いた。
「その、首輪」
「んあ?」
「あの医者のSubになったっつ~噂は、ほんとだったのか」
「だから何だよ? 言っただろうが。オレの飼い主はあんたじゃねぇって」
「…………んっと気に入らねぇ。中学んときも、いまも。……外子の分際で、偉そうに地元の名士気取りしやがって」
「がいし?」
タイミングを計っていた澄生は、耳慣れない単語に首を傾げる。
門田を抱えたまま「けけっ」と笑い声を立てた小林は、小馬鹿にしたような表情を浮かべて首に当てていた右手のナイフを眼前に突き出した。
「なんだ知らねぇのかよ? あの裕司ってスカシ野郎はなぁ、父親が多頭飼いしてた雌のSub奴隷に産ませた婚外子なんだよ。3か月生まれの違う姉が居りゃ言わずもがなだろうが!」
「……!」
「家畜が産んだガキが最強Domとか、マジふざけんなっつ~んだ!」
苛立ちのままに小林はナイフを横に振り払って激昂する。
突如知った事実に頭は混乱していたが、その隙を見逃す澄生ではなかった。
同じく知ってしまった事実に困惑して見合わせた門田に向け、顔をあえて師範代の表情に変えて鋭く命じた。
「体を落とせっ!!」
「……っ!」
日頃から道場で鍛えている門田はすぐさま反応した。
小林の胸に倒れ掛かるようにして全身の力を抜く。体の重みでストン!と落ちた少女の体は即座に起き上がって、立ち上がりざまに後ろ足を蹴り出した。
不意打ちで腹を蹴られた小林は、受け身をとる間もなく派手に吹き飛ばされる。
その拍子に手を離れたナイフがカラカラと床を転がった。
とっさにバランスを崩して倒れ掛かった少女を受け止めた澄生は、その体をくるりと右手へ押しやってドアの方向を示した。
「行って! もうすでに応援が来てるはず!」
「は、はいっ!」
「っぐ、くっそっ! 待て……このっ!」
痛む腹を押さえながら起き上がった小林が、怒りに紅潮してGlareを放った。
が、その口がコマンドを発する前に澄生は大きく踏み込んでいた。左足を軸に体を反転させ、振り上げた右足首に小林の首を引っ掛けて横へ振り払う。
こうした場合、蹴って怪我をさせるのは論外だ。最小限の威力で相手の重心を倒せさえすればいい。その間に辿り着いた門田がドアの向こうへと走り出していくのを見送りながら、思わずやれやれと溜息をついた。
「ほんっと。つくづく最低の下衆野郎だな、あんた」
「……っ、ぐ……く……」
Subだ奴隷だと蔑んでいた相手に二度も転がされた衝撃で、さすがの悪党も精神的なダメージを負ったらしい。怒りが声にならず唸り続ける小林に向け、澄生は肩をすくめて最後通告する。
「オレにどんな恨みがあるかは知んねぇけど、未成年の拉致・監禁は立派な犯罪だ。婦女暴行未遂の余罪もつくかもな。……あんたはもう終わりだよ」
ドアを再び振り返る。
応援を呼ぶと言っていたからきっと警察も駆け付けているだろう。
ショックを受けている少女のケアは裕司に任せておけばいい。
あとはこの男を警察に引き渡して、しかるべき場所で裁きを受けてもらえば終了だ。
はぁ……と大きく溜息をついたところで、ピンポ~ン♪とチャイムが鳴った。
逃げた門田が応援を呼んできてくれたらしい。
いまだ呆然としたまま座り込む男に背を向けてドアへ向かった。
駆け付けた彼らを引き入れるべく、オートロックのドアを開ける。
ドアのすぐそばに立っていたのは、白いシャツに濃紺のネクタイを下げた30歳前後ほどの男。おそらく刑事だろう男の横には、ぶかぶかな背広を肩に掛けた門田がいる。
さらに後ろに裕司の顔が見え、思わずホッと息をついた。その時。
ドッ! 背中の右側に感じた衝撃。
遅れて肩甲骨の間あたりを重鈍い衝撃に押されてよろめいた。
倒れそうになった体を壁についた手で支えて振り返ると、両手を腹の前に構えた小林が、血の滴るナイフを握ったまま狂った笑いを浮かべていた。
「ぎゃはははははっ! ざまぁ~みろっ! どいつもこいつも気に入らねぇ! いいかげん全員死ねやコラッ!!」
「小林っ、貴様っ!」
カッと顔を紅潮させた刑事が慌てて両者の間に割って入ろうとする。
だがその寸前、稲妻のように走り抜けた激しい威圧がその場の全員を足止めした。
「うぁ……っ!」
「きゃあっ!」
「げぇええっ!」
まるで重力にでも押されるように各自の体が床へ崩れ落ちる。
それだけでは終わらず、キーンと耳鳴りがする激烈なGlareが廊下いっぱいに広がり、隣りあう部屋の扉の向こうからも何かが倒れる音や悲鳴が聞こえた。
Domである小林すら恐怖に竦んで身動きが取れず、廊下の向こうから駆け付けようとしていた制服姿の人々もうずくまって荒い息を繰り返す。
ただひとり正気を保てていた澄生が、激痛を堪えながら立ち上がった。
「ゆ……じさん……オレは大丈夫……だからっ!」
「………………」
「思い出して……オレらが出会った『高架下』を、思い出して……!」
仁王立ちのまま表情を無くしていた裕司がハッと我に返って澄生を見返した。
たちまち威圧が収束し、静寂が訪れる。
しばらく呆然と立ち尽くしていた裕司は、ズボンを伝って絨毯に広がり続ける血だまりに気付いて澄生の元へと駆け寄った。
「澄生っ!」
青ざめたまま慌てて上着を脱いだ裕司は、横たえた澄生の服の下の傷口を確かめ、すぐに丸めた上着を押し当てて強く圧迫する。
その間にようやく立ち上がった警官たちに向け、悲鳴のような声を響かせた。
「救急車を! 早くっ!!!」
うつ伏せのまま横向きに顔をあげた澄生は、薄れゆく意識の向こうに、涙声で名を呼び続ける裕司の苦しみを見つめていた。

