身支度のためにいったん西棟へと戻った裕司は、正面玄関で待たせていた澄生と共にタクシーで自宅マンションへと戻った。
玄関で律儀に靴を揃えてから身を起こした澄生は、勝手知ったる足取りで廊下を歩きながら「腹減った~」と呑気に呟く。
「なんかホッとしたせいか、急に食欲と空腹感が」
「簡単なものならすぐできるよ。ちょっと待っててくれるかい?」
「うん」
リビング入口の壁にクラッチバックを掛け、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して手渡す。カウンター越しにそれを受け取った澄生は「ありがと」と笑って、回り込んだソファに腰を下ろした。
薄いレース越しの夜景を眺めながらプルタブを起こす音が響く。
いがいに酒好きらしい澄生は、部屋を訪れるとたいがい缶一本をミネラルウォーター代わりに飲み干す。さらに裕司が用意した夕食を味わいながらもう一本。
職業柄もあって酒はたしなみ程度にしか飲まない裕司は、彼が訪れるようになって初めて、自宅用にビールケースを買い求めるという経験をした。
ナポリタンを作る予定で大鍋を火にかけ、手早く水洗いした野菜を刻む。
パスタを茹でる間に具材を炒め、トマトソースで味付けをして皿に盛りつける途中、視線を感じて顔をあげると、ジッとこちらを見つめている澄生と目が合った。
「ん? なに?」
「なぁ裕司さん。あんたを癒すひとって居たのかな?」
「なんだい? 藪から棒に」
「さっきプレイルームでの話を聞いてて思ったんだけど。8年前に会った時にはもう、裕司さんは癒し系Domって言われてたじゃん? みんながあんたを頼って、救いを求めて、オレも助けて貰ったけどさ」
ひょいっと身軽に立ち上がった澄生は、缶を煽って飲み干しながらキッチンへと入ってくる。
食器棚の下のゴミ箱に空き缶を投げ込むと、振り返った横から裕司の肩に寄り掛かるようにして手元を見下ろした。
「パートナーが居なかったあんた自身には、癒しを求める先があったのかなって」
「………………」
「確かに、お医者としていろんなSubとプレイしてるから、その意味じゃ解消されてんのかもしれないけど。でもたぶん、最近は満たされてないんだろ?」
「どうして、そう思う?」
「だってさ。この何日か、気持ちに余裕無くしてんじゃん」
カウンターにパスタ皿を並べ終え、流し横の引き出しからスープカップを取り出そうとしていた手が停まる。
それを見た澄生は顔をあげ、苦笑と共に裕司の目元を撫ぜた。
硬い指先が触れた場所に薄っすらと浮かぶアザ。
自身も鏡でそれを見ている。
実習やら論文やらに明け暮れていた大学時代にすら浮かべたことのない寝不足の証だった。
「当直明けで眠れてないってのも、あるだろうけど」
「……澄生」
「今日だってそうだよ。人前でプレイをしてみせるなんて……たぶん、普段のあんたなら考えないだろ? らしくないんじゃないのかな?」
「―――……確かに、そうかもしれない」
部活顧問だとはいえ、澄生にとって教え子である女子生徒の前でプレイをした。
もし門田が逆ギレを起こして騒ぎとなれば、澄生は職場で気まずい立場となってしまう。
それを承知していながら実行したのは、あの場の澄生の不安を払拭したいというDomとしての本能が働いたせいなのだろう。
普段ならば理性が掛けるべき歯止めが……利かなくなっている。
「裕司さん、オレにちょこちょこGlareをくれてるけど、ままごとみたいなプレイしかしてないじゃん? 最近すっげぇ感じるの。ホントは……焦れてるだろ」
「そんなに、あからさまだったかな」
「オレをチラチラ見ながら溜息ついてんだもん。そりゃ分かるって!」
ぷはっと笑い出した澄生に、どこか後ろめたい思いで裕司は沈黙した。
自分らしくないという自覚はある。こうして澄生と過ごす時間が増えていく毎に、胸の内でどんどんと欲望は膨らみ、暴れる。当直の最中にも眠れず、溜息をつく瞬間が増えた。
自制しようとすればするほど募る焦燥感。その躊躇いの正体は分かっているのに、向き合うことを恐れてしまっているのだ。これでは患者を笑えない。
停まったままの裕司の手からカップをとりあげ、澄生は背後の食器棚の引き出しから粉末スープの袋を取り出して手慣れた様子でスープを作り始めた。
やがてコーンの甘く香ばしい匂いが漂う。
それをパスタ皿の横に置き、ダイニングテーブルに運ぶためにキッチンを出ようとした澄生を、無意識の手が引き止めていた。
「ん、裕司さん?」
背後から抱きすくめた裕司を、澄生は肩越しに振りかえる。
裕司は内緒話のように、唇が触れる距離にある耳へひっそりと囁いた。
「怖いんだよ」
「なにが?」
掛かる息に、澄生はくすぐったそうに片目を細める。
そのこめかみへ頬を擦り付けるようにして項垂れた裕司は、自身でもかつてないと思うほど昏い口調で呟いていた。
「君の言うとおり、わたしはパートナーを持ったことが無かったから。その分、歯止めが利かなくなってしまいそうで」
「なんで、そんなに怖いの?」
「―――わたしはたぶん……君を……殺せてしまう……」
「はっ?」
「何度も夢で見るんだ。温かな体のまま……腕の中で息絶えている……君の姿を……」
「ちょっ! ちょっと待って裕司さん。あんたの悩みって、そんな極論だったんっ!?」
「可笑しいだろう? 君と付き合い始めてまだたった2週間だというのに。自分でも……異常であることは、分かっているんだが」
吐露し始めたとたん、裕司の中で思いが堰を切ったように溢れ出した。
おそらく悪夢の原因となっているのは、最初のプレイで意識を失った澄生の顔だ。
目を回しただけだと分かっていながら一歩間違えれば殺していたとゾッとした。その罪悪感が脳内でリプレイされるうちに夢として現れるようになってしまったのだろう。
温かい体を抱きすくめる手足は震え、脈動を刻むこめかみがズキズキと痛む。
痙攣する喉の奥から絞り出そうとする声も震えていた。
「わたしは……力が強すぎて、無自覚な君を操作できてしまう。極端にいえば、夢見心地の状態のまま《窒息しろ》と命じて、自死させることも……できるんだよ」
「うっ! ま、マジか」
「自分から……願って、パートナーとなったくせにね。いつか、怒りや欲望に任せて、君を殺してしまうのではないかと……怖いんだ。今日のような暴走が起きた時、最強ランクのわたしを止められるDomは……存在しないから」
「……っは~~~~~~~……そういう……ことかよ……」
抱きすくめられたまま、ガシガシと頭を搔いた澄生は溜息をついた。
胸の前に回る両腕に片手を添えて、無言でしばらく考えたあと、ポンとその腕を叩いて再び肩越しに振り返る。
間近で瞬いた丸い瞳には、見惚れるほど不敵な笑みが浮かんでいた。
「大丈夫だよ、裕司さん。オレは止められるぜ?」
「え?」
「あんたが言ったんじゃん。深く支配されててもオレは理性を失わないって。だから口を塞がれでもしない限り思い出させられるよ。オレたちが出会った場所をさ」
「…………あ…………」
―――セーフワード。2人が出会った八柳町の『高架下』。
ストンと、胸の内で何かが落ちた気がした。
音にはされなかったその言葉が、まるで魔法のごとく激情を鎮めていく。
嘘のように力が抜けた裕司の腕の内でくるっと向きを変えた澄生は、悪戯っぽく笑って、ちょんと啄むようなキスをする。そしてすぐ拗ねたように口をへの字に曲げた。
「オレだってさ、けっこう不安だったんだぜ? あんたの周りには恋敵だらけだし。あんたは本気でプレイしてくんないし。患者にするレベルのおままごとしかしないなら、別にオレがいる必要ないじゃん」
「そう……だね」
「な。オレはあんたが選んだパートナーなんだろ? だったら、もっとオレのことも信用してくれよ」
「……すまない」
切ない自嘲に苦笑が零れた。
Domが支配者だなどと、いったい誰が言ったのか?
踏み入ることを許されなければ本当の意味では満たされず、たった一言で最強の力も無効化される。
どんな男尊女卑な暴君も女の腹から生まれるのと同じ。
どちらが欠けても成り立たない。
結局のところ互いの存在価値は対等で、最後に手綱を握っているのはSubのほうだ。
(わたしは……なにを思い上がっていたのだろうな……)
激情をぶつけてはならないと恐れていた自分が、急にバカバカしくなる。
謀らずも裕司自身が言ったのではないか。Subが求めているのはDomからの信頼だと。それを実行に移せていないのでは医者失格だ。
澄生は他のSubたちとは違う。
高ランクSubであることももちろんだが、自分自身が、受け止める力があることを確信して選んだパートナーなのだ。
ならばちゃんと、最初から澄生に事情を打ち明けて許しを請えば良かったのに。
裕司の感情が変化したことを察してかニッと澄生が口の端をあげた。
途端こみ上げた愛おしさに胸が詰まった。
鼻先が触れるほど近くにある瞳に、懺悔するような思いのまま問い掛ける。
「―――澄生。わたしの支配を……受け止めてくれるかい?」
「うん。オレはあんたのSubだからね」
誓約に交わした口づけの最中、真下から場違いな音がした。
クゥ~~~~~~~と響いた哀愁たっぷりな音。顔を見合わせた2人は、どちらからともなく笑い出す。
「そうだ、腹減ってたんだ!」
「はははっ。そうだね。まずは食欲を満たしてからにしようか」
なぜか救われた気分でホッと息をつく。
先ほどまでとは打って変わった晴れやかな心地で、裕司は途中になっていた夕食の支度を再開した。

